小林義信 牧師のおすすめ

                       「イエスキリストの招き」

 

 ご機嫌いかがですか、ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

旧約聖書詩編39篇6節です。「ご覧ください。与えられたこの生涯は僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでもすべて空しいもの」 私達は良く知っています。「人生とは神の一瞬の瞬きよりも短い。と」 昔は人生50年と言われていましたが、最近では、人生百年となりました。でも伸びたからと言っても、その時間の経過の中では同じように苦しみや、悲しみや、迷いは同程度に私達を襲って来ます。そんな時に、「ああ、神様助けて下さい」と、神を信じていなくとも叫んだのではないでしょうか。所が、聖書ではこの地上に到来した神の御子であるイエスキリストが、その様な絶望し希望を無くした人々に対して、彼を信じることで神の愛と知恵が与えられ、その様な境遇から脱する事が出来、希望を持って歩む事が出来るとおっしゃったのです。「悲しむ人々、

心の弱い人、虐められている人、私の所にいらっしゃい」と、イエスは、招かれています。この短い人生を喜びを持って、悔いなく、有意義に過ごす為に、彼の招きを受け入れて歩もうではありませんか。

 

 

                「人々を憐れむイエスさま」

 

ご機嫌いかがですか、ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

新約聖書マタイによる福音書4章24節「そこで、イエスの評判がシリア中

に広まった。人々がイエスの所へ、色々な病気や、苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒された」。神の子でありながらも、人の姿をとりこの地上に来られたイエスは、父なる神から人の苦しみ、悲しみ、病を癒す力を与えられておりました。愛のみ手を持って、彼らを励まし、憐れみ、彼らの癒されたのです。心が挫け希望を失っている人には愛と憐れみを注いで下さいました。憐れみとは「勇気を与える」と言う言葉がその元の意味です。つまり、イエスは力あるみ言葉を持って心が萎え、立ち上がる力が失せているている人々に、「自ら立ち上がる」勇気を与えて下さったのです。事実、ルカによる福音書17章19節では、重い皮膚病の人を癒された時にイエスは、『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』と、おっしゃられました。勇気を持って立ち上がり、イエスに従いましょう。

 

 

                      「悔い改めなさい」

 

 ご機嫌いかがですか、ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉はルカによる福音書5章31節~32節です。「イエスはお答えになった。

『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』」

悔い改めるとは「反省する」と言う事ではありません。よく冗談で「反省なら猿でも出来る」と言われています。聖書では、「悔い改める」「神に立ち帰る」と言う言葉が頻繁に出て参ります。これは天地創造の時、神の似姿に造られた最初の人、アダムが神との約束を破ってしまい罪に堕ちたことによって、そこから生まれた者は神から離れると言う罪を持つ者となってしまいました。その事を悲しまれた神は、人々に神のみ言葉に従い、神の御心に立ち帰れとおっしゃったのです。罪とは「神と言う的を外す」と言う意味であり、悔い改めとは、「向きを変える・方向転換をする」と言う意味であります。つまり、単に自分の行いを反省するだけでなく、自分の心を正しい方向に向けなおし、具体的に自分の生き方を変えて、神のみ言葉に従って歩む事が、「悔い改め」なのであります。

 

 

                       「命のみなもと」

 

 ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会小林義信です。本日のみ言葉は、

旧約聖書箴言4章23節~25節です。「何を守るよりも、自分の心を守れ。

そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。目を真っすぐ前に注げ、あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ」 神がはじめて人間をお造りになった時、「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」創世記2章7節で証言されたいますが、この時神は人が心を持つ者として、良心、理性、知性をお与えになり心身共に生きていく事が出来る者として下さったのです。そして、他の被造物を管理する役割を与えられました。所が、人は神との約束を破ってしまい「神から離れる者」言い換えれば「罪を犯す者」となりました。そして、自分の心をもコントロール出来ない者へと堕落したのであります。それが原因で人を恨んだり、嫉妬したり、羨んで人の物を欲しがったりするような心の持ち主と成ってしまいました。

その様な状況から逃れる道は、ただ一つ、それは自分を造って下さった神の愛を受け入れ、神の下に立ち帰る事であります。

 

                       「導いて下さる神」

 

 ご機嫌いかがですか、ひたちなか教会小林義信です。本日のみ言葉は旧約聖書イザヤ書48章17節です。「イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。私は主、あなたの神、私はあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる」 ここでは私達の造り主が、彼を信じる者達に対して、力あるメッセージを語って下さっています。神は憐れみであり、愛であり、正義であり、真実なお方です。知恵や知識を渇望する人には、真理を明らかにして下さり、悲しむ者には励ましを与えて下さいます。「憐れみ」と言う言葉は、「勇気・力を与える」と言う言葉から派生しています。つまり、神は悩みや、苦しみや、悲しみにある人々にそこから立ち上がる力・勇気を与えて下さっています。神の愛と憐れみを受け止める人には、真理を悟らせ、神が何時も私達から離れることなく、励まし、守り、導き、多くの恵みが与えられている事を悟る事が出来るのです。御子イエスキリストも申されました。「疲れた者、重荷を負う者、悲しむ者、誰でも私の下に来なさい」

私達は、このお方のお招きに応え導かれて、この地上の歩みをこれからも元気よく勇気を持って、前に進めて参りましょう。

 

 

 

              「どこまでも見放さない主」

 

ご機嫌いかがですか、ひたちなか教会小林義信です。本日のみ言葉は、旧約聖書哀歌3章31~33節です。「主は、決してあなたを何時までも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんで下さる。人の子らを苦しめ悩ます事があっても、それが御心ではない」ここでは、絶えることの無い神の愛と憐れみについて預言者エレミヤが神への揺るぎない確信を表しています。この地上の歩みの中では、昨日も触れましたが悩みや、苦しみや、悲しみが増した時に、私達はついつい神が私達を見放しておられるのではないかと思ったりしてしまいます。でも、神は私達に人生を送る力を与える為に、悩みや、苦しみや、悲しみを与えて訓練されるのです。決して私達を絶望のどん底に突き落とす為ではないのです。神はご自身の御性質を受け継ぐ者としての人間をどこまでも愛して居られます。誰一人、神の愛から外れて良いなどと思っておられません。獅子が子を谷底に落とすと言う譬えの様に、人が神を信じて力強く苦難から立ち上がり、神と顔と顔を合わせて過ごす事が出来るようにと、神は待っておられます。考え方を変えて見ますと苦難や試練や悲しみは、神から与えられた大いなる恵みなのかも知れません。

 

 

 

                     「日々与えられている恵み」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

ヨハネによる福音書1章16節です。「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」 私達は生まれた時から罪に絡めとられ、自分ではなかなかそれを解く事が出来ませんでした。所が2000年前にイエス様がこの地上に来られて、私達をあの十字架上の死と復活の御業において罪から解き放って下さったので、その恵に預かっているのですが、日々の生活の中でなかなか、その事を実感できません。何故なら、私達の身と心はついつい物質的な物に、金銭で計れるものに向いてるからであります。イエス様の恵みはその様なものではありません。神様と一度途切れた関係を、平和な関係にとりなして下さり、私達の心に平和と永遠の命と言う希望を与えて下さったのです。これが恵みなのです。そして、イエス様は申されました。「私の言葉にとどまりなさい。そうすれば、あなた方は真理を知り、真理はあなた達を自由にする」このように、み言葉を受け入れる者には、日々、大いなる自由と恵みが与えられているのです。

 

 

                  「満ちたれるを知れ」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

テモテへの手紙Ⅰ 6章6節です。「もっとも、信心は満ちたりる事を知る者には、大きな利得の道です」 今日、日本は相対的に先進国の中でも貧困化のスパイラルに中に陥っています。それで、多くの悲観的な声が聞こえて参ります。それでは私達の生活は夢も希望も無くなったのでしょうか。そうではありません。今こそ、私達が物質的な富や金銭の上に価値判断の基準を置くことから脱却すれば、新たな道が目の前に広がっているのであります。物質的な欲望を小さくすることで、物事に対する執着を弱めることができ新たな道が開けるのであります。それは聖書を通して主イエスキリストの愛とその御心を知る事です。イエス様は申されました。「この世の思い煩い、富の誘惑、その他、色々な欲望が心に入り込むが、み言葉においてそれらを打ちはらいなさい」「明日の事まで思い煩うのはよしなさい。その日の苦労はその日だけで充分である」 私達は、ついつい足りない、少ないと愚痴をこぼしますが、実は神から多くの恵みを頂いていると思うときに、その心の内にはいつの間にか大きな喜びが与えられている事に気が付くのであります。

    

 

                     「試練を耐え忍ぶ者」

 

ご機嫌いかがですか、ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

ヤコブの手紙1章12節です。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は、適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠を頂くからです」

皆さんは良くご存知でありますが、神様が初めてお造りになった私達人間は、

「エデンの園」の中で、何の不自由もなく、額に汗をかいて労働することもなく過ごすことが出来ていました。それにも関わらず、あの蛇に姿を変えた悪魔の誘惑に掛かってしまい、罪に落ちエデンの園から追放されてしまいました。現代に生きる私達は、どうでしょうか、富や地位や名誉と言う誘惑にかられ人としてしてはならないことをついつい犯してしまう者ではないでしょうか。そして後から後悔するという事が多いのではないでしょうか。そんな私達を赦して下さったのがイエス様です。彼のみ言葉を受け入れて多くの試みや誘惑を耐え忍ぶ者には、この世の富や地位や名誉とは全く関わりのない、神の御国の真の富と栄光を与えて下さると、あの十字架を通して約束してくださいました。そして、試みに打ち勝った者に命の冠を与えて下さいます。これは、信仰を守り通した者に与えられる唯一の褒章(ごほうび)でありますので、これを目指して努力して参りましょう。

 

 

                   「目標を目指して」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

フィリピの信徒への手紙3章13節b~14節です。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリストイエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」 昨日も、命と言う冠を目指して努力しましょうとお話し致しましたが、私達は、この世の人生の中で、ついつい過去の愚かな出来事を思い起して、自分を責めたてる事が多いと思います。でも使徒パウロはフィリピの教会員に対して、「過去をいくら悔やんでもそれはもと通りには決してならない。そんなことに思いを馳せる暇があったらこれからの信仰生活に目標を定めて生きて行きなさい」と書き送ったのであります。彼自身は将来有望な律法学者になると期待され、当初はキリスト者の迫害に懸命になっていましたが、ある時突然キリストの光に照らされて、キリストの弟子になり、その生涯を掛けてキリストの福音を宣べ伝えるという目標を掲げて駆け抜けた人であります。そして、約束のキリストから永遠の命を頂いたのであります。私達の人生の終わりの時に、どの様な賞を頂けるでしょうか?

 

          「目に見えないものを信じる」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

コリント信徒への手紙Ⅱ 4章18節です。「わたしたちは見えるものではなく見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」 私達が住んでいるこの地球は宇宙の中では全く目に見えないほどの微小微細な星粒にすぎません。そして、人間はその上で70億分の一に過ぎない存在です。それでも、全てのものは自分中心に回っていると錯覚している愚かな存在であります。神がお定めになった自然法則のどれ一つが欠けても、明日の命は保証されません。それにも関わらず、人は、全てを知った気分になり傲慢高慢の生活を送っている愚かな者に過ぎないのであります。「千年と言えども御目には、きのうが今日へと移る夜の一時にすぎません」詩90篇4節 に記されていますが、人の一生などは神の一瞬のまばたきよりも短いのであります。そのような短い時間の中で、何を信じて生きたら良いのでしょうか。それは、目に見えないものにこそ真実があり、目に見えないものにこそ真の希望がある事を知る事です。つまり、神を知る事において真の知識が得られるのであります。

 

               「秘められていた神のご計画」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

エフェソの信徒への手紙3章9節です。「全てのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、全ての人々に説き明かしています」天地万物の創造主である神は、ご自分がお造りになった人間を愛しておられ、最初の人が罪を犯したことに心を痛められ、そこから人の罪をどの様にお赦しになるかを、長い間考えておられました。昔から、「親の心、子知らず」と申しますが、選びの民たちは神の御心を知ることなく、神に反抗する生活を送っていたことは旧約聖書に示されています。彼らは、神との約束を何度も破り続けました。それで、神は長い間秘めていたご計画を実行に移されたのであります。つまり、ご自身の一人子を地上に下され、そのお方を彼らの罪の償いの代償として十字架に架けられ、その一人子を信じる者達の罪を赦され永遠の命を保証されました。

使徒パウロは、この事実を人々に知らせるた為に身を犠牲にして伝道に励みました。この放送をお聞きになっている方の中で、この秘められていた神の計画をお知りになりたい方は、是非お近くのキリスト教会の礼拝にお越しください。その内容を喜んで、お伝え致します。

 

     

                      「真の幸いとは」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。本日のみ言葉は、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

マタイによる福音書53節です。この箇所は「山の上の教え」と言われ、イエスが伝道を始められ、多くの人々から慕われ、尊敬されていた彼は、何時も多くの群衆に囲まれておりました。この時は、しばし群衆から離れ山に登り弟子たちに語られた九つの「幸いの教え」の最初の言葉です。「心の貧しい人」とは、財産や富を持っていない人を意味するのではなく、世の中での試練や、苦しみや、悩みの中でひたすらに神により頼む事しかできない人を指し、このような人々が、己がその様な弱く愚かな者であることを自覚し、悔い改めの心をもってイエスに従うのなら、真の霊的な救いによって、喜びと幸いを実現出来る事となり、そして、目に見える物の無意味さを知り、その人の心の内には豊かな天の御国が実現すると教えられたのです。このお話を聞いておられるあなたが、今、苦しみや悩みの中にあるのなら、是非、この聖書の箇所を開いてお読み下さい。真の幸いを発見できるはずです。

 

 

 

                  「狭い門」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。本日のみ言葉は、「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い」 マタイによる福音書713節です。私たちは長い人生の中で、行くか、行かないか、やるか、やらないかと重大な決断をしなければならない人生の分岐点を乗り越えて今日まで過ごしてきました。後から振り返ると「ああ、あの時止めておけば良かった」とか、「行って正解だった」等と一喜一憂するのが人生であります。「広い門」とは、楽で安易な生き方を選択する事であります。誰も、狭く凸凹している道を選ばないものです。しかし、イエスは「狭い門は、永遠の命に導き、広い門は滅びに通じる」とおっしゃられました。狭い門はイエスの教えであり、広い門は世間一般を指しています。世間一般の生活に流されている時には、人は傲慢高慢になり、人に対する愛を忘れ自分の事だけを考えています。しかし、イエスの教えを受け入れる者は、神を愛し人を愛する生活を送ることが出来るのであります。一見大変そうに見えるイエスの教えを心から受け入れて歩む人には

真の幸が訪れるのです。

 

                 「神は決してあなたを見捨てない」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

「虐げられている人に主が砦の塔となって下さるように、苦難の時の砦の塔となって下さるように。主よ、み名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることはない」 詩編91011節です。

これはダビデ王の詩の一節です。栄華を極めた王であっても彼自身、多くの身の危険に度々襲われましたが、彼は神こそが唯一の支え主であり、自分を守って下さる方と深く信頼していたからこそ無事に全ての困難を克服する事が出来たのです。私達、今日この世で生きる者にとっては若しかしたら、ダビデの時代よりももっともっと過酷な社会環境の中にあるのではないでしょうか。激烈な競争社会、富める者とそうでない者の激しい経済格差の中で、また、自然環境の悪化の中で命の危険に晒されているのではないでしょうか。このような中でも神に信頼を置く者は、神の愛と恵みの中で守られ主を賛美しながら生きているのであります。主を愛し、日々神に祈る者、賛美する者を、主は決して見捨てることなくご自身の民として下さっています。

 

 

             「あらたな希望に生きる」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

「主に望みをおく人は、新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」 イザヤ書40章31節です。

これはユダヤの民が、バビロニアの侵略によって国が滅び、多くの民が囚人として連れていかれ苦難と悲しみの中に遭った時の事が記されています。

確かに神はバビロニアを用いて不信仰なユダヤの民を罰せられましたが、真の神の愛は失われることなく、民にもう一度ご自身に立ち帰り、新しい心をもって神を信じて希望を持って悔い改めるのなら、立ち直る力と勇気を与えて下さると、イザヤは預言したのであります。私達が、人生の中で多くの試練や苦しみや悲しみに出会うときに、それは神の愛が失われたと絶望したり、神の存在を疑ってしまうことがあるかも知れません、でも決して弱音吐かず、神の憐れみと救いを信じてれば、神の御子イエスキリストが十字架上で果たして下さった御業ゆえに、神は私達の罪を赦して下さり、新しい命を与えて下さるのです。そして、私達はイエスキリストを受け入れ新たな希望に満たされて人生を送ることができるのであります。

 

 

              「真実の情報とは」   

 

 ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の

道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」 詩編1篇1~2節です。 格言に「朱に交われば赤くなる」と言うのがあります。白い布が一寸でも赤い染料が付けばそ赤色は簡単に拡散してしまう、言い換えれば正直な人が、悪意ある人と交わったり、影響を受けたりすればその被害は甚大であることを表現しています。この世の中は、神を否定する人で溢れています。その人たちは、神の真理なぞ受け入れず、何時も独りよがりの思いの中で生活しています。この世の中でイエスキリストの信仰に生きるとは、どの様な生き方を指すのでしょうか。それは、神様と言う的を外さず、悪しき思いに引きずられず、正しい道を歩むという事であります。今日の社会は、インターネットによって良き情報、悪しき情報で満ち溢れています。そこから正しいものを選び出すと言うのは至難の業かも知れません。しかし、その中で私達の生き方を正しく示してくる情報、それは、聖書です。その中には、あなたがどの様に生きて行ったら良いかが示されています。

 

 

 

                  「新しい革袋」

 

 ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。本日のみ言葉は、

「だれも新しいブドウ酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ブドウ酒は革袋を破り、ブドウ酒も革袋もだめになる。新しいブドウ酒は、新しい革袋に入れるものだ」 マルコによる福音書222節です。

当時のユダヤでは、ブドウ酒は瓶ではなく革袋に入れられて保存されていました。所が、革袋は年々古くなり発酵し続けるブドウ酒に対応できなくなり、そして、発酵するガスによって革袋は破れてしまいます。同じように、私たちの人生も独りよがりの生き方すると、いつの間にか新鮮な気持が失われ、愛と希望に満ちた情熱は無くなって参ります。安易な社会通念と慣習の中でだらだらと生きていく事になりがちであります。その様な時に、新しい革袋にブドウ酒を移し替えるが如く、主のみ言葉と言う新しい革袋に、あなたを移し替えて見て下さい。そうすれば、この世での多くの圧力にも耐える事の出来るご自身を再発見することが出来ます。 どうぞ、これからは、古いものを破棄し、新しい生き方を受け入れる人生を歩もうではありませんか。

 

 

           「喜びの日」

 

ご機嫌如何ですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。

今日から新年度がはじまり、学校や会社での新しい人生の出発に心を躍

らせ喜んでおられる皆様に心からのお祝いを申し上げたいと思います。

本日のみ言葉は、マタイによる福音書28章7節「それから急いで行って、弟子達にこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこで、お目にかかれる』確かにあなた方に伝えました」2000年前の週の初めの日曜日にこの奇跡が起きたのであります。これは、キリスト教信仰の根幹であり、また「大いなる喜びの日」であります。それは、本日が「イースター」つまりイエスキリストが「復活されたことをお祝いする日」であるからです。私達はこの地上を歩むなかで、神から頂いた教えや戒めに従う事の出来ない者であり、悪しき行いや悪しき思いを持って生きています。罪に囚われた生活を余儀なくされています。しかし、イエス様は、あの十字架上の恥と苦しみの中で、その身を犠牲にして私達の罪を赦される為に身代わりとなって死なれ、三日目に復活されました。この事実を知る時、私達はイエスキリストの大いなる愛を信じ、また救われたその幸せを喜ぶのであります。この日を共に喜びお祝いしましょう。

 

 

       「信仰とは」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。

本日のみ言葉は、新約聖書ヘブライ人への手紙11章1節です。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です」

 世間では、信仰を持っている人に対して揶揄する時、「イワシの頭も信心から」等と言う方がおられますが、神はイワシや、石や、木から作られた目に見えるものではありません。多くの人は目に見える像や、絵や、造形物を神として崇めています。これは正に偶像礼拝であります。また、「この目で見なけりゃ神なんて信じられるか」と言う方もおられます。でもこの世界や宇宙では目に見えない真実がたくさんある事を知らねばなりません。最近の宇宙天文学では、この宇宙は目に見えるものはわずか15%で、残り85%は見えない暗黒物質で構成されていると発表されました。この様に、目に見えない事実の中で私達は存在しているのです。その様に、天地万物をお造りになった神は、この宇宙の全てを支配され、統治され、私達を守って下さっています。また罪深い人間の心の内に信仰と言う新たな生き方を示して下さり、キリストの愛の御業において、永遠の命の中に入れて下さっているのです。この事を確信して人生を送って参りましょう。

 

 

      「おさな子のように」

 

ご機嫌いかがですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。

本日のみ言葉は、新約聖書ルカによる福音書9章48節です。「あなた方皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」 一昨日から、新年度が始まり、新しい環境の中で、皆さんは夢と希望を持ってお過ごしの事と存じます。

企業社会では地位のある方が偉く、多くの方はピラミッドの中で上下関係の悲哀の中に居られるのではないでしょうか。所が、この時弟子達が「この中で誰が偉いのか」と、どんぐりの背比べを始めました、それを見た、イエスは、一人の子供の手を取りこの様に申されたのです。子供のように素直で純粋であれと言う意味だけではなく、新約聖書コリント信徒への手紙14章20節に「兄弟達、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になって下さい」この言葉がイエスの思いを表しています。人は利己的な自己愛の中に溺れ、神様が示された思いや、行いに従う事が出来ない者であります。必要以上のそんたくや、へつらい、高慢、傲慢が蔓延しています。これをご存じであればこそ、イエスは「私に従う者は、信仰においてはおさな子のように、日々の生活に於いては大人の様に知恵ある者として、身を正して生活しなさい」と申されたのであります。

 

 

      「心や安らかに過ごしましょう」

 

ご機嫌如何ですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。

本日のみ言葉は、旧約聖書イザヤ書30章15節です。「お前達は立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼している事にこそ力がある」 この御言葉は、私達がただ単に神の言う事を唯々諾々と従えと言っているのではなく、日常の生活の中で多くの誤りを犯すのが人間の常でありますが、その事を悔い改めて神に立ち帰りなさい。そうする事によって、私達の心の内は、落ち着き穏やかになり、この世の思い煩いに心を痛める事が無くなり、そして、その様な時にこそ神様の御救いの力がより一層明らかになり、み力の輝きが私達の上に一層あかるく輝く事となると言われたのです。 同じ様にイエス・キリストもマタイによる福音書11章29節「私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる」と申されました。この世の人間関係や、仕事の重さから我を忘れ、悩み悲しみ、疲れ絶望に至る事は少なくないのですが、その様な時にこそ、これらのみ言葉に示された、主の愛と憐れみを受け入れようではありませんか。主は、あなたを招いておられます。

 

 

      「神様のお約束」

 

ご機嫌如何ですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。

本日のみ言葉は、旧約聖書エレミヤ書32章40節です。「わたしは、かれらと永遠の契約を結び、かれらの子孫に恵みを与えてやまない。また、わたしに従う心をかれらに与え、わたしから離れないようにする」 と申されました。神様は、ご自身を信ずる民に対してこのように約束して下さったのです。わたくしたちが、神を信じると言う時、自分だけの救いを願ってしまうのですが、神様はそうではなく将来のあなたの子孫にまで、救いの恵みを与えて下さると言われました。また、それだけでなく「わたしから離れないようにする」 この事は、「二度と罪を犯さない」様にして下さると言う事を意味しています。なぜなら、「罪」とは、「神様から離れる」と言う事だからであります。神様は、信じる民に対しては「罪を犯さない」ように、何時も守り導いて下さり、その子孫にまで救いの恵みを与えて下さるのです。信仰するとは、自分だけが救われるという狭いことではありません。あなたの家族も、その子孫も救われると言う深い神様のみ心を受け入れる事なのであります。

 

 

      「守って下さるお方」

 

ご機嫌如何ですか。ひたちなか教会牧師小林義信です。

本日のみ言葉は、旧約聖書詩編34篇20~21節です。「主に従う人には災いが重なるが、主はその全てから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる」と記されています。聖書では私達はこの世では「旅人である」と言われています。そうであるのなら、旅の途中で多くの戸惑いや、危険に遭って苦しんだり、悩んだり、迷ったりして己の行く先を見失ってしまう事があります。でも、その様な時にこそ、これは神様から自分に与えられた試練であると理解し、それを受け止めその御意志に従って歩んで行きなさいと教えられています。イエスキリストも申されました。

「今まで、あなたがたは私に名によっては何も願わなかった。願いなさい。(祈りなさい)そうすれば与えられあなたがたは喜びに満たされる」と。

試練の中にあって、神様に祈る事によって「災いの全てから救い出してくださり、私達を守ってくださる」と申されました。この事を、信じて神様に全てをお委ねして、これからの人生をを力強く歩んで参りましょう。

 

     

                    「神のご計画と恵み」

 

ごきげん如何ですか?   ひたちなか教会牧師 小林義信 です。

本日のみ言葉は、テモテへの手紙Ⅱ 1章9節です。「神が私達を救い、聖なる招きによって呼び出して下さったのは、私達の行いによるのではなく、ご自身の計画と惠によるのです」 教会にはじめて来られた方が、「私の様な世の中の為に何も奉仕しない者が、教会に来てバチが当たらないのですか」と尋ねられる事があります。私は、次の様にお答えしました。「バチが当たる等と言う事はありません。あなたが教会に行こうと思われた事は、あなたの意志がそうさせたと様に見えますが、実はイエス様のご意志が最初にあり、あなたを教会に招いて下さったのです」  「そこには、イエス様があなたの心の内をよくご存じであり、あなたをご自身の御手の中に包み込んで差し上げたいと思われたからです。そして、来られた方に聖書のみ言葉を通して、イエス様の愛の姿を示したいと願って居られるからです」 

そのイエス様の思いに対して、私達が、何か良い事をしなければならないという事でもありません。イエス様をただ信じる信仰があれば全てが赦されます。 この愛と恵みを、遠慮なく素直に頂く事が信仰なのです。

 

                      「イエス様の招き」

 

ごきげん如何ですか?   ひたちなか教会牧師 小林義信 です。

本日のみ言葉は、マルコによる福音書2章17節です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招く為ではなく、罪人を招く為である」 イエス様が食事をしておられた席の周りには律法学者や、人々から嫌われていた徴税人達、また一般の人々が取り囲んでいたのです。何時も自分は偉い、自分は正しい者だと自負をしていた学者は、皆から罪人の頭と悪口を言われていた徴税人と一緒に食事をしているイエス様を指さして、「あの男は罪人と食事をしている」と非難したのです。これに対して厳しく彼らに対して、イエス様は指摘されました。「人の罪ばかりを糾弾し、己の目に罪の太い丸太が刺さっている事を知らず、悔い改めもしないで人を罪に定める者達よ、私はお前達の救いの為に来たのではない。私は、己の罪を悔い改め、神を信じる者達の為に、この世に来たのである」とおっしゃられたのです。イエス様の前では、人は全て罪人ですが、正直に自分の犯した悪しき行いを反省し、イエス様と共に歩もうとする人には、その人の嘆きや、苦しみや、悲しみを共に分かち合い、私達が愛の中にある事を教えて下さるのです。イエス様のお招きに堂々と応えようではありませんか。

 

 

                        「永遠の命とは」

 

 ごきげん如何ですか。  ひたちなか教会牧師  小林義信 です。 

本日のみ言葉は、ヨハネによる福音書17章3節です。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエスキリストを知る事です」 これは、間もなく十字架に架かられるイエス様が神に対して祈られた言葉の一節です。 命と言う言葉は、一般的には「生物が生きていくための源となる力」と言う意味です。つまり、人間も生物ですからこの生きて行く力が失われた時が、死であります。しかし、イエス様が言われたのは、人は先ず天地万物をお造りになられた真の神を信じ、イエスキリストのみ言葉を通して一層深く神の事を知る事において、真の生きて行く力が備えられるとおっしゃたのであります。確かにイエス様が、この世に来られて果たされた御業は、多くの人々の萎えた心を生き返らせ、再び希望の命を与えられ、イエスを信じた人々に新しい霊的に生きる道を示して下さいました。つまり、この霊的に生きる道を知る事こそ、永遠の命に至る道であったのです。言いかえれば、イエスキリストを知らなければ、信仰しなければ永遠の命には到達する事が出来ないと言う事であります。 イエス様は、あなたを招いておられます。

 

 

                 「神にお任せする」

 

 ごきげん如何ですか。   ひたちなか教会牧師  小林義信 です。 

本日のみ言葉は、ペトロの手紙Ⅰ 5章7節です。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなた方の事を心にかけていて下さるからです」 私は、実は2年後に、後期高齢者の仲間入りを致します。これまでの人生は正に山あり谷あり、時にはジェットコースターのような時もありました。しかし、今日までこうして生活する事が出来ましたのは、このみ言葉にいつも励まされていたかに他なりません。今この放送をお聞きになっている方の中には、社会に出て間もない方が居られると思います。ある意味、人間関係の戦場の中で日々激烈な戦いを演じておられるかも知れません。その様な時に、あなたが挫けない様に支えて下さるのはどなたでしょうか。親御さんですか、あるいは、尊敬する方でしょうか。イエス様は申されました。「明日の事まで思い悩むな、明日の事は明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」これは、私達に投槍になる事を勧めているのではなく、神に信頼をおいて生きていきなさいと、教えられているのです。そうすれば、日々新しい力が生じ、思い煩いは消えると申されました。心配する事は命を削る事であります。イエス様に祈り信頼する事で、あなたの心の内に力が湧いて参ります。

 

 

                         「人を汚すもの」

 

 ごきげん如何ですか。  ひたちなか教会牧師  小林義信です。 

本日のみ言葉は、マタイによる福音書15章11節です。 「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」 イエス様はご自身に敵対するユダヤの権力者たちが外形的な規定によって、人を汚れある者として裁いている事を非難されました。イエス様が申されたのは、「汚れとは人の心の内から出て来るものであり、その思いが具体的な口や、手足の行動となって人に害を及ぼす」と言う事でした。彼等は、正しい人イエス様がいては自分達に都合が悪いからと言って、十字架に架けて殺そうと計画し実行しました。その口実は、「神を冒涜している」でありました。これが神の子イエス様に対する裁きの中心点でありました。何時の世でもそうですが、人に争いを仕掛けたり、人を陥れる時、真実とはかけ離れた口実をもって人を裁いています。私達も日常の生活の中で、高慢や傲慢の心、嫉妬心や、憎しみの心で隣人を足蹴にしたり、裁いたりする事があるものです。しかし、その様な時にもう一度自分を振り返ってみて下さい。あなたの言動が真の正義であるかどうかです。イエス様は申されました。「あなた達は肉に従って裁くが、私は誰をも裁かない」 この様な、イエス様の憐れみの心を受け止めて参りましょう。

 

 

                          「隣人のために」

 

 ごきげん如何ですか。  ひたちなか教会牧師   小林義信です。  

本日のみ言葉は、テトスへの手紙2章14節です。「キリストが私たちの為にご自身をささげられたのは、私達をあらゆる不法から贖いだし、良い行いに熱心な民をご自分のものとして聖める為だったのです」 神は、「イエスを信じる者に永遠の命を与える」との御計画の中で、この世で不法を行い罪ある者達の身代わりとして献げる為に、一人子を地上におくられました。本来でしたらこんな割の合わない事は起こり得ないのですが、私達を創造された神の愛は全く私達の思いを超えた所にあったのです。イエス様も申されました。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために私は来た」 また、そこにはもう一つの目的がありました。それは、イエス様の教えに従って人の為に善き奉仕をする人々を、聖霊の御業において聖め続け、天の御国に迎え入れる為でもあったのです。イエス様は、私達に二つの掟を与えられました。それは、「主なる神を愛する」 そして、「隣人を愛する」でした。私達は、己の救いのみを考えるのではなく、隣人の救いの為にも祈り奉仕して行きたいものであります。

 

 

 

                                   主こそ良きアドバイザー

 

 ごきげん如何ですか、ひたちなか教会牧師 小林義信です。

 旧約聖書箴言(知恵の教訓)3章5節~6節に「心を尽くして主に信頼し、

 自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、

 主はあなたの道を真っ直ぐにしてくださる」と、記されています。

 私達は、この世の生活の中で自分の希望や理想通りに行かない事がたくさん

 あります。心を煩わせたり、心配したり、時には絶望したりしてしまいます。

 その様な時に、自分の感情に流されたり、早急な判断によって思わぬ結果を

 生み出してしまう事が多いのであります。後悔先に立たずであります。

 しまった! と思った時は後の祭りなのではないでしょうか。 その様な時

 こそ事前に、聖書を開いて下さると、たくさんイエス様の真実のみ言葉に出

 会う事が出来ます知恵に満ちたみ言葉を発見する事ができます。どうぞ、

 後悔なさる前に、聖書を紐解いて見てください。必ず、あなたに相応しいみ

 言葉を発見できるでしょう。このみ言葉を語られた、イエス様こそ、あなた

 の良きアドバイザーです。

 

 

            私の声を聞いて下さるお方

 

 ごきげん如何ですか、ひたちなか教会牧師 小林義信です。

 旧約聖書詩編28章1節 「主よ、あなたを呼び求めます。私の岩よ、

 私に対して沈黙しないで下さい」と、記されています。皆さんの中で、

 遠藤周作原作の、映画「沈黙」をご覧になった方が多いのではないでしょうか。

 残酷な拷問の中で宣教師が、「主よ何故黙っておられるのですか。何故、彼らを

 見捨てられるのですか」と絶叫する場面がありました。 しかし、イエス様は

 申されました。「私の言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」

 「私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は、決して

 死ぬ事はない」と、おっしゃっています。これは、十字架刑を控えたイエス様が、愛する姉妹達に語られた言葉です。イエスご自身が死んで三日目に復活される事を預言され、そして永遠の命に至る事を彼女達に示されたのです。信仰とは、イエスの十字架上の死と復活を信じ、永遠の命に約束されていることを確信する事です。つまり、人間の肉体の死は終わりではなく、新しい命のスタートなのです。

この事を覚え、約束の永遠の命に希望を託してこれからも歩んで参りましょう。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=U8uD982amcM

 

         

                  救いを妨げている心の壁

 

 ごきげん如何ですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。

 旧約聖書59篇1節~2節 「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が

 鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前達の悪が神とお前達との間を、隔てて

 いる」と、記されています。 主なる神は、愛すればこそ私達人間を創造され、

 生きて行く知恵と永遠の命のお約束を与えて下さいました。所が、最初の先祖がたった一つの約束を破ったばかりに、神との関係が壊れ、エデンの園から追放されてしまいました。そこから、人間の心の内に罪が入り込み、神との間に厚い隔ての壁を作ってしまいました。そして、神様から切り離され、男は額に汗して労働し、女は出産の苦しみを味わう事となったのです。そして、彼等の子は、自分の兄弟を殺すと言う尊属殺人の罪を犯してしまい、その性質を受け継いだ子孫も罪を犯す者となったのです。しかし、神は、その事を深く憐れみ、その壁を壊すためにイエスを、地上に送って下さり、、私達が、何の代償を支払う事無く罪を赦して下さったのです。この、イエス様 の一方的な愛によって救われた私達の果たすべき役割は、「イエス様を知る事」「信じる事」 であます。これからも、イエス様のみ言葉からそれず、罪に堕ちる事無く、イエス様と一緒に歩み続けようではありませんか。

        

 

 

 

                   知恵の初め

 

ごきげん如何ですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。

旧約聖書箴言17節 「主を畏れる事は知恵のはじめ。無知な者は知恵も諭しをも侮る」と、記されています。ここで言う「畏れるは恐怖の恐れではなく、うやまいかしこまる」と言う意味です。今日、知識は旧約の時代の当時の人々から見れば考えられない程、多くのものを人工知能やネットから受ける事が出来ていますが心の弱さや、苦しみや、イジメを解決できず、悲しんでいる人々がかえって増えている現実であります。何故なら一般的な知識では解決できないからであります。

新約聖書のヨハネによる福音書8章31節「私の言葉に留まるなら、あなた達は本当に私の弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする」この様に、真理であるイエス様の言葉を受け入れ、それに従う者は罪から解放され真の自由を享受する事が出来ると、おっしゃられました。つまり、私達が人として、人格者としての出発点は、私達の造り主であるところの神を知ることから始まるのであります。そして、その方との交わりを回復し、正しい関係をつくる事こそ知恵の始まりです。ですから、そのお方を認めず、畏れず、信じない者は、愚かな者と言う事と成ります。そして、多くの人はその事さえ知る事なしに苦しんでいるのであります。 あなたも是非この事を覚え、聖書のみ言葉に触れて見て下さい。

 

 

                    真のお医者さん

 

ごきげん如何ですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。

新約聖書マタイによる福音書9章13節 「私が来たのは、正しい人を招く為ではなく、罪人を招くためである」イエス様はこの様に語られました。教会に初めて来られる多くの方が、「わたしの様な者は教会に相応しくないのでは」とお尋ねになります。所が、この福音書を記したマタイは、ローマ政府から徴税人としての権利を買い、必要以上の金額をとり懐に納め、人々からは憎まれ、罪人の頭として嫌われておりました。でも、イエス様は彼を弟子とされたのです。イエス様は、この様に人々から嫌われ、蔑まれ、絶望の中にある人々にその救いの御手を差し伸べられたのです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」これがイエス様がこの世に来られた目的の一つでありました。自分は正しい者だと高ぶる者にではなく、己の罪を何時も自覚し悩み苦しんでいる者に救いの御手を差し伸べる事であったのです。医者は病人に対しては、憐れみを持って対応する者であります。消えかかっている命を救いたいと願う者であります。この様な、人々に救いの手を差し伸べるイエス様こそ、真のお医者さんなのであります。このお方は、心を病んでいる人、病気で苦しんでいる人を愛されました。イエス様の体なる教会は、その様な方々の為に扉が開かれている所です。是非、一度その扉を叩いてみて下さい。イエス様にお会いできるでしょう。

 

 

          

                 イエス様はブドウの木

 

ごきげん如何ですか。ひたちなか教会牧師 小林義信です。

新約聖書ヨハネによる福音書15章5節「私はブドウの木、あなた方はその枝である。人が私に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」 イエス様がお育ちになったユダヤでは、ブドウは主要産物であり、ぶどう酒は食卓に欠かせないものでありました。そして、ブドウは平和と繁栄の象徴でもありました。イエス様はご自身をブドウの木に例えられ、信仰について教えられたのです。幹は木全体を支え、根からは水を吸収し、枝は葉をつけ、葉は太陽の恵みによって光合成を行い、酸素と葉緑素、糖分を生成します。そして最後には、甘い実を結ぶ事が出来るのであります。このように、根、幹、枝、葉の夫々の働きでイエス様につながる者は信仰の実を結ぶ事が出来るのです。実を結んだブドウの木が集まってブドウ園が構成されそこから熟成された実が刈り取られ美味しい香り高いぶどう酒が産まれます。このブドウの園が、教会であります。私達は、このブドウ園に集い、命の水である主のみ言葉、上から豊かに注がれる神の恵みによって、一本一本のブドウの木は豊かな信仰の実を育んで行く事ができます。 皆さんどうぞこのブドウ園に一度お越しください。香り高いブドウの実を共に、味わおうではありませんか。

 

 

 

 



 

 

 



【 礼拝 】      

・2024年11月24日(日)

【メッセ-ジ】

「 将来の更なる祝福 

  岡本 惠 代理牧師  

・聖書:エゼキエル36:9~  12

・讃美歌:545番,11番,

 290番,542番

 

 2024.10.13(日)こども礼拝 

  2024年 年間教会標語

 日本キリスト改革派

   ひたちなか教会

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