おはようございます。ひたちなか教会の小宮山です。
自らのことを、清廉潔白、何も後ろめたいことはない、といえる人はどれほどいるでしょうか。法律違反、いわゆる犯罪をしたことがない。その意味において、後ろめたいことはない、という方は多いかもしれません。しかし、自らの行動や考えについて、後ろめたいことがないと言える人がどれくらいいるでしょう。全てをご存じである、神の前で、後ろめたさがないといえるでしょうか。
旧約聖書、詩編26編1節にはこのような言葉があります。
「主よ、あなたの裁きを望みます。 わたしは完全な道を歩いてきました。」
この詩編の作者は神様に対して裁きを望んでいます。しかも、完全な道を歩いてきたともいっています。どうやら自信に満ち溢れているようです。それでは、この人はまったく後ろめたさの無い、罪のない人だったのでしょうか。けっしてそんなことはありません。この詩編の作者は、自らが完全な道を歩いてきた、といっているのは罪や後ろめたさがないという意味ではありません。それはただひたすら、神様を信頼して歩いてきたということです。自らの行いに落ち度がないのではなく、ただひたすら神様を信頼してきた。それこそ、完全な道なのです。
このような道を歩む時、わたしたちは過去にとらわれるのではなく、未来に向かって歩むことができるのです。こうした幸いは、イエス・キリストを信じる全ての人にあたえられているのです。